「和を以て貴しとなす」のNINJA FOREST解釈
「和(やわらぎ*)を以て貴しとなす」という言葉は日本書紀に記されている十七条憲法第一条に書いてあります。日本人にとって欠かせない精神性を表すもので、ことわざにもなっていますが、その解釈は大まかに分けて二つあるようです。今回のコラムでは、その両方について考えてみます。
一つはその場の和を保つことを重んじ、そのためには個々の我慢が必要とする解釈。もう一つは、それぞれの考えを出し合い十分に話し合って、和を保つ努力をする過程が必要だという解釈です。
ひとつ目は和が「目的」であり、ふたつ目は和が「結果」であると言えます。
そもそも「和」の解釈もいくつもありますが、それを目的にした場合、必ず「空気を読める」「自分より人を優先する」心優しい誰かが自分の思いや意見を抑えることになります。声の大きい(つよく主張する)人に場が支配されがちなのは今でもよくあることですね。そこで異を唱えて議論するのは勇気もエネルギーも必要なわけで、また、後の関係性悪化を防ぐため、黙っている人の方が多いのではないでしょうか。それは和を保つというよりも、一部の人が小さなストレスを溜めたり、静かに相手から離れていく原因にもなります。人生には我慢も辛抱も必要ですが、それを美徳にして人に求めるのは違う気がします。
次に和を結果として見た場合、人それぞれ考え方や感じ方が違っているというおおらかな捉え方が前提となります。多様な人種や価値観を持った人間が交差する時代には、心を開いて話してみなければ相手の「好き」や「大切にしていること」もわかりません。ですから、和やかに話し合い、互いを理解することが結果としての和につながる手法として重要になります。話し合った結果、場が調い「和」が得られる状態が「調和」です。実際、十七条憲法の第一条と対になっている第十七条には「独断せず皆で話し合う」ことの重要さが記されています。
どの世界でも、より我慢を強いられるのは声が小さい、力の弱いものです。立場や思想にとらわれず誰もが互いをわかり合おうとする、そういう状態になることを人類はずっと求めて耐え忍んできたのだと思います。長い歴史を経て、そのことを学んできたはずの私達が生きているこの世界は、かつての賢人が掲げた「貴い」世界になっているでしょうか。
*「やわらぎ」の読み方はWikipediaより引用